アリストテレスの「妬みは同類の者に対して生じやすい」という言説、はヘーシオドスの記述「靴屋は靴屋を妬み、大工は大工を妬む」を参考にしてるらしい。妬む対象が同類のものである、との言葉にどきりとする。SNSによって、細分化されたクラスタで集まれるようになった一方で、クラスタごとの縦のレイヤー、例えば社会的地位や富の量・仕事の内容までが比較されやすくなり、結果的に同質的な人への批判や妬みが渦巻くヘイト文化は強化されたのではとも感じている。
妬みを感じるときはどのような時か。
自分自身に問いかけると、日常へのコントロールがうまく効かないと感じられる場合に妬みが生じやすい。なにか違うかもしれないという違和感に妥協しながら生活していると、どんなに楽しく快適に暮らしていても違和感は膨らんでいく一方であり、私はその違和感を無視し続けることができない。より正確には、2〜3年位は片目をつぶりながら無視て置いておける鈍感力があり、3年くらいした頃にようやく違和感に耐えられなくなるのがいつものパターンである。
自分にとっては20代が湧き出る妬みの量が一番多かった。身を置いていた業界に対して辟易としていたこともあったし、幸いなことに身近な人に吐露する以外に実名SNS等で大っぴらにすることはなかったと思いたいが、「わたしのほうがもっとうまくやれるのに」「そんな思想な人なんかが評価されてて…」と憤慨することも少なくなかったのは、若さゆえの傲慢さでもあっただろう。
行きたい方角や理想はあるのに、自分の現在地からどう動けばいいかわからない、自分のあり方の路線変更をどうすればいいのか想像がつかない、思い通りに動けない、走る方向もわからない。そんな状況で、自分の妬みだけが肥大化していく。今振り返ると、批評家を気取どり、自分のポジションを持って社会に対する働きかけなどなにもしないまま、誰かの何かの活動や思想にケチをつけるだけの嫌な奴だったかもしれない。
今現在は、相手との比較による負の妬みに近いような気持ちは枯れつつある。そしてこれは、明確に老化でもある。当時の憤りポイントが変わったわけではなく、むしろ、苛立ちや違和感を前よりは明確に言語化できるようになった。しかし、言語化した違和感を考えたり、言論として誰かにぶつけたりする時間があれば、自分の手を動かし一步でも望ましさに近づこうともがいたり、同僚や同胞である友人たちの素晴らしい取り組みに対して、喜ばしさや応援したい気持ちとともに得られる、自らを奮い立たせるような温かな嫉妬を浴びたりしたい。走りながらそんなことを考えていると、批判のみを声高らかにする時間などなくなってしまい、違和感は自分の活動に反面教師として反映させていくこととなる。
何気なく伝えた本音が全く伝わらなかったり、バカにされたりすることもあるけれど、座り込んでいた場所から立ち上がり、わからないなりに少しづつでも足を動かしうろうろすることで、周りの人や機会にも恵まれていろんなことが動いていく。これから理想の場所に辿り着けるどうかは自分次第だけれども、少なくとも多くの人に導かれ、理想を目指せる土地にはたどり着いている気がする。うまくいかないことも難しいことも多分にあるが、それもわたしが握った舵だからと、自分に言い聞かせながらつよく手綱を握り直すことができる。
大学1年生の頃によく聞いていた、アメリカのバンドDeerhunterの彼らの1曲「nothing ever happen」の一説を今でもよく思い出す。(調べたらもう15年以上も前の曲だった)
Nothing ever happened to me Life just passing, flash right through me
ただ待っていれば、誰かがわたしを見出して、機会が平等に天から降ってくるわけではない。わたしの内を表明したり、行動したり、自分の外側に生み出していくことでしか、他者はわたしを知ることができない。そしてそれは、生身の自分を外の世界にむき出しにすることでもあり、傷つく確率もぐっと上がる。裸の状態で世界と関わり続けることを諦めないことで、誰とどんなご縁が繋がっていくのかは、それこそはわたしのコントロールに無い、天命のようだとつくづく思う。 そして、そんな何かしらのご縁のなかでつなげてもらったものは、覚悟をもって挑む必要があるし、その誠実さを全うしたい。
現状に対して足掻きながら覚悟を決めて進めていても、思うように成果が出ないこともあるが、なにかがじわじわと変化したり、自分がやってきたことに対して評価をしてくれる人がでてくる。そういう人がひょんなタイミングで数年後に別のお声がけをしてくれたりすると、あの時の自分が認められた気がしてすこし嬉しくもなる。あらゆることが、そういうことの積み重ねでしかない。
そして、そんなことを考えわかったつもりになっているものの、人間とは愚かなもので、できている日もできていない日もある。ゆらぎのなかに身を委ねつつも足を運び続ける。
🎥 今週の映画
どうすればよかったか?(2024)
現在公開中で話題になっている「どうすればよかったか?」。統合失調症が疑われる姉と両親との対話を20年間記録し続けたドキュメンタリー映画。あまり前情報を入れずに見に行ったこともあり、ままならなさにしんどさがあった。良い映像だった。
仕事で障害や福祉領域に関わると、当事者やその家族が社会とつながることが重要であるという視点を織り込んでいくが、「家族」の内側の視点から見たときにそうは言っていられない個別の状況がある。監督の家族状況、だれもが詳らかにしたくない内状的なものを、オープンにすることは、使命感であり、覚悟でもあったように感じた。映画の最後の「どうすればよかったか?」と言葉は、家族に対して問いかけでもあり、映画を見ている私達に対しての問いかけのようでもあった。そしてわたしはその問いにに答えることができず、一体どうすればよかったんだろう、と悶々と考え続けている。
👀 最近の気になりごと
🤳 レックス・フリードマンPodcastのDeepSeekについてまとめた方のツイート。
このあたりが気になった。冷戦時代の米ソ宇宙開発競争のように感じるが、実社会の影響距離が近すぎる。
・DeepSeekのリリースが地政学的にも非常に重要な転機であり、5年後も語られる可能性が高い
・アメリカと中国の分断の方向へすすむ可能性の示唆。リリースを契機とした米中台のリスクの悪化 。これは、台湾のTSMCが最先端半導体製造で世界をリードしているから・各社がギガワット規模のデータセンターを目指すレベルに達していて、核発電を保有しなければいけないくらいを要する事例も
・環境への懸念はあるが、AI競争では電力の確保が最優先事項となっている。Metaは天然ガス発電所を、OpenAIは大規模発電施設を計画中
・人類全体への脅威よりも、AIやブレイン・コンピュータ・インターフェースを利用する少数の権力者が大きな力を得る「テクノファシズム」的な状況を懸念
(元動画はこちら| Lex Fridman Podcast #459 - YouTube)
🏢 50代の県職員2人「能力不足」として分限免職…業務の指示に従わない・資料紛失 : 読売新聞
行政職員、法に抵触しない限りクビになることはないのかなと思っていた、そうじゃない場合もあるらしい。
🏫 弘大大学院が一つに統合「幸福」研究拠点に|青森ニュース
予算が縮小していく地方国立大学、特に大学院の未来の1つの方向性はこうなるだろう。ウェルビーイングかどうかはおいておいても。
⛰️ 地元当局が7年前から計画していたダムをビーバーが勝手に建設して約1億9000万円の節約に - GIGAZINE
ビーバーさんすごい。
動物学者のJiri Vlček氏は、「ビーバーはたった1晩、長くても2晩でダムを造ることができます。人は建設許可を取って、建設計画を承認してもらい、そのための資金を調達しなければなりません」と述べ、掘削業者の工事が始まってもダム建設に1週間程度はかかるだろうと指摘しました。