#10 ちょうどいい不幸のエッセンスを摂取したい欲望
仕事の中で、子育てや女性の社会的な問題、さまざまな当事者、社会的構造の中で抑圧されている領域について関わることが多い。とある課題の直接的な当事者が、文化人類学者のことを「ガリバー旅行記みたいなものですよね」と言っていたことが心に残っていて、自分も同様にガリバーとなってしまうことを気をつけ続けている。
前提として、非当事者が当事者の状況や問題について関わることは悪いことではない、と思っている。「当事者」だけが該当課題を語ることが許されるのであれば、その領域の課題は当事者間のみでしか共有されず、社会的な権力構造が変わっていくことが難しくなってしまい、権力関係は固定化されてしまう。
たとえば、最近けんすうさんが「女性の社会進出」をCOTENさんたちと論じるポッドキャストを収録しているとツイートしていたときに、内心「全員男じゃん!」とは思った、すみません。(これを書いている段階ではまだ未公開)
ただ、その後のツイートや過去のCOTENラジオさんの取り組みを見ていると、当事者(女性)の状況の理解とともに、その問題に関わる男性としての当事者性のセットで語られるのかなと感じた。男性性や社会での働き方のあり方・資本主義の構造や会社の制度をセットで考える必要がある。同じ問題を共有する、男性側での広い意味での当事者性を持ったうえで議論しなければ、本質的に課題は解決に向かわない。ただ「女性の社会参加を増やす」だけでは、弱者救済的・対症療法的なアプローチにとどまりがちで、社会構造自体を変革する力にはなりにくい。なので男性だけど当事者として関わるのであれば、それは悪くないよな、と思う。自分のナラティブでしか問題を語ってはいけない世界は、EUのアート系・デザイン界隈はすでにそういう傾向があると思うが、それはそれで窮屈で少しいびつな気もしている。
社会課題に直面する当事者と自分の境遇は異なっていても、社会構造を俯瞰的に理解する中で、「いつか自分も同じ状況に置かれるかもしれない」「自分と無関係ではない」という想像力を働かせることが重要だ。これにより、自分が"非当事者"だと思い込んでいた認識の壁が崩れ、連帯や共感の可能性が広がる。会社では「課題の再公共化」と呼んでいるこのプロセスである。異なる他者に対する想像力は筋肉のように、継続的なエクササイズによって可動領域を広げていくものであり、意識的に鍛えていかなければ衰えてしまう。
一方で、比較的恵まれた環境にいる人々の中には、「社会問題に関わりたい」「課題解決に貢献したい」という意識を持ちながらも、それが自分の原体験や当事者との直接的な関わりと結びついていないケースがあるように感じることがある。特定の課題に真摯に向き合っている人たちを一般化して批判つもりはまったくないが、時に「SDGs大事だよね」と以上になっていかないこともある。
社会課題への関心自体も小さな行動も価値あり、尊いと思っている、これは明言したい。ただ、消費的に当事者を扱わない態度を顧みるためには、一つの課題に深くコミットするというよりは、さまざまな課題に少しずつ関わることで満足感を得ている側面をメタに認知することが大事なのではないか。自分も含め、私たちは無意識のうちに「ちょうどいい不幸のエッセンス」を接種するようなかたちで、自分とは異なる立場の人々の状況を消費してしまう可能性があるのではないだろうか。
友達にこの話をしたときに、「ダメ男がなぜモテるのか」の構造と似ているという指摘を受けた。ダメ男を好きになる女性は、安定した生活を送りながらほんの少しの不幸や刺激を求める感覚に近いのではないか、という話だ。私自身、頭を使いたくないときにYoutubeで復讐すっきり系の動画を視聴したり、ピッコマで悪女転生なろう系(韓国縦読み漫画)を読む。人に大っぴらに言えるようないい趣味ではないが、仕事で疲れた頭を世俗的な刺激物で中和している感覚がある。生活が安定しているときの「ちょうどいい不幸のエッセンスを摂取したい欲望」は無意識的に多くの人が持っている欲望で、ちょっと冒険したいとか火遊びしたいとかにも近いのかもしれない。
ただそれらの不幸を表面的に人工物の"デザイン"(無論デザインじゃなくても)の対象として消費してしまうことは、当事者の声を深く聞くのではなく、表面的な物語に変換してネタ化してしまう=植民地主義的な構造を再生産してしまうことにつながる。「あの人たちの不幸や苦しみ」「自分からは遠い痛み」として扱うと、結果的に当事者の生活や価値観が参考資料となってしまう。
そうならないために大事かなと思っていることは以下3つの観点:
1."安全地帯"の自分を相対化する
安定した立場にいるが故に、「ちょっとだけ不幸を接種したい」という欲望がないか、自分に問いかける。それを自覚することで、無意識の"当事者消費"に陥らないように注意する。
2.当事者視点を「知識」ではなく「経験」に落とし込む
単に情報を得るだけでなく、当事者と時間をかけて関わること。自分に「真の当事者性」がなかったとしても、友人知人の関係の上で考える問題は当事者性を帯びうる。自分が網目の中に入っていく。
3.社会構造を見据える、関係の中に自分を位置づける
「助ける、手を差し伸べる側」「助けをうける側」の二項対立にならないこと。「自分も当事者になりうる(なりえたかもしれない)」という視点から、広い意味で自分がこの問題にどのように関わっているのか、加害側でも被害側でもあるかもしれないことをどのように捉えることができるか。
他者にとやかく問うよりは、私自身が常に気をつけないといけないことである。社会システムや構造に向き合うトップダウン方向での思考を巡らせているとつい、わかった気になってしまうことがある。リスペクトを持つと一言で言うと聞こえはいいが、態度やスタンスは行動ににじみ出ている。
とはいえ、いろいろな領域に携わる中で旅行者的な視点も必要なことがあるし、金銭的な面や状況の制約の中でできることの限界もある。自分もそういう役割が求められもする。ただ、踏み荒らしていかない、再生型観光(リジェネラティブツーリズム)のメタファーのような関わりを考え続けていきたい、そうありたいから。
📖今週の雑誌
アイデア 409号 | 美しい書物を求めて ―中世ヨーロッパの写本とデザイン
グーテンベルグが活版印刷を発明する前の時代の書物の特集。マージンやレイアウト、カリグラフィーの先駆的な存在。その後の時代から生まれている書物から、ブックフォーマットを顧みたのがウィリアム・モリスでケルムスコットプレスで書物は今のグラフィックデザインに続いていく。
大した知識はありませんが、デザイン史に載っていたケルムスコットプレスの書籍がみたくて、ロンドンのV&Aに見に行った自分としては、単純にウキウキする一冊。羊皮紙についてのコラムも面白かった。
📖最近の気になりごと
💰️ ゴミから金の延べ棒? まさに「都市鉱山」 焼却灰を溶融、資源化
ゴミの資源化文脈、都市鉱山としてのゴミという視点が興味深い。かつては「処理」の対象だったものが「資源」として争奪戦になるという転換。社会の価値観の変化が経済構造にも影響していくのを感じる。
👦 職場での「子持ち様」論争 モヤモヤの原因は?
分断の原因をどう感じているか、それぞれの当事者(自分が子どもがいる立場・いない立場)から取っているアンケートが良かった。どちらの立場も「理解してほしい」という気持ちがあるけど、なかなか交われない。
👨👨👦👦 保育料を経費に!プロジェクト|保育料が経費にならないの、なんで?
個人事業主ないし経営者の特に女性にとっては死活問題なんですよね(きっと男性もも悩んでいる人はいる)。社会の変化によって制度も変化していってほしい。「働く」ことと「育てる」ことが分断されている制度設計の限界を感じる。この2−3年で有無や育てるにまつわるプロジェクにダイブして、社会で子育てをすることが個人の自己責任ではないようなシステムチェンジが必要だと強く思っている。
2024年の1月から始めて10本目、なかなかスローペースだけれど、スローでつづく物事の居心地の良さも感じています✉️