ペリアン、エスコバル、韓国の活版印刷、不可視化する展示のデザイン
単一的な歴史に回収されてしまう、あれやこれへの違和感に立ち止まる
このところ耳障りの良いことしか書けておらずええかっこしかしないと思われるのもしゃくだなと、メルマガはそんなに読んでる人も少ないので最近ウッとしたことを分解して書いておく。
11月から21_21 DESIGN SIGHTで開催される展示の広告がSNSで流れてきてウッとした。「デザインの先生」と題するこの展示。展示紹介文でもあるように、マックス・ビルやブルーノ・ムナーリなど大巨匠たちを「先生」として仰ぐ。
今回フォーカスするのは次の6名、本展では彼らを「デザインの先生」として紹介します。
1つの側面ではかつて炎上したファミマの『お母さん食堂』にも近いノリを思い出す。もちろん取り上げられている6名のデザイナーの功績や影響力は計り知れないし、100歩譲って、この時代の社会状況として活躍できる(名声を得られる)”デザイナー”が男性だけだったことも理解できる。しかし、アアルト夫妻もイームズ夫妻も、あるいはコルビジェの元で働いてたアイリーン・グレイも。夫婦としてあるいは誰かのスタッフとしてしか認められなかった時代的背景があり、当時最先端とされていたバウハウスですら女性は織物と陶芸しかさせてもらえなかった。新工芸舎三田地さんに教えてもらったのだが、 日本のデザインといえばで名前が上がる柳宗悦ですら、女性のデザイナーからも影響を受けている。(このあたりの具体例はふしぎデザイン秋山さんさん・新工芸舎三田地が教えてくれた)
1940年の戦争直前に日本政府の工芸指南役として日本に呼ばれたのがシャルロットペリアンで、受け入れ役は柳宗悦だけど、案内役としてついて回ったのが柳宗理という。言わずもがな柳宗理は戦後第一世代のデザイナーだし、グッドデザイン賞の創設にも関わっていたりするから、日本にデザイン成分を注入した最初の人は女性なんだね。(新工芸舎三田地さん)
このような展示の物語の紡ぎ方がこれまでの延長として積み重なり、「デザイン・デザイナー=西洋白人男性」という強固な日本におけるイメージに繋がっているのだろう。
もう1つの側面では、デザインという概念が西洋起源の思想であることの根深さを改めて突きつけられる。
例えば、歴史の教科書的には、産業革命のきっかけとなった印刷技術の発展は、グーデンベルグが「発明」した活版印刷から始まったと言われているが、活版印刷の技術自体はその80年も先に韓国で生まれたという説もある。宗教上の理由から需要が限定的だったことや、当時漢字がメインだったために文字数が多すぎることで、活版印刷のメリットを活かしきれなかった。アルファベットという単純な文字列を組み合わ得て使うシステムとのマッチや、ヨーロッパでの神の需要が高まっていたタイミングとも合致し、グーデンベルグがその影響力を持った、ということらしい。
同様に西洋が「発明した」と言われるものが、必ずしも本当に0から生まれているわけではなく、広げてルール化し価値として支配するようなムーブを先に行ったから、「デザイン的に正しい歴史」として回収されている。(それだけではなく、EU各国のローカル・土着的なものそこに回収されてしまっているようにも思う。)そしてこういう展示などで行われる歴史の編集自体が、西洋起源の”デザイン”の物語を強固にしている。…というようなことが、ラテン文化を起点にエスコバルを始めとした脱植民地・脱西洋中心な世界として多元世界について語られたことで、デザインにおける評価軸自体のローカル文脈での翻訳が、学際的なデザイン学の現在の潮流につらなっている。
とはいえ、展示自体が100%悪いとか、取りやめたほうがいいと糾弾したいわけではない。好意的に解釈するならば、六本木という日本の一等地で持続的な集客を見込むため、デザインに少しでも興味を持ってもらう人が増えるために、このようにシンプルでわかりやすい展示の編集に着地したのだろう。かつ、今の時流でこういう展示をアメリカ・ヨーロッパないし他国でやるとおそらく大炎上するので、良くも悪くも日本でしかできないかもしれない展示なのかもしれない。
批判することで議論を生み出すことは必要だが、言葉尻強く言及し続けキャンセルするような社会も窮屈だと感じる。批判が機能しきらない感じが日本ぽくもある。
同じようにウッとした人は少なからずいるだろうが、それに関する言説をほとんど見かけないのは少しこわい。具体個別へのDisが、その個別事象に好意を抱いている人にとっての攻撃になってしまうという配慮はありつつ。建築の領域では批判が機能しているが、デザインの領域ではそうではない、というのが顕著に現れている現象であると思える。
でも、「タイトル、誰も止めなかったのかな?どうにかしてるぜ…」くらいは言わせてほしい気もする。
👀最近の気になりごと
この人の言語化ー身体感覚に関する見方が自分とすごく似てる。身体感覚や直感は言語化した瞬間に陳腐になるというか、インプット時の平坦な言葉か、超具体的なノウハウにしかならない。なるほどデザインの話で描かれるような抽象論か、熟練デザイナーさんの語るニッチテクニカルな話なのか、みたいな
柏市長選挙。柏市くらいの大きな自治体で、選挙無しで首長が決まる珍しいケース。。。一体どうしてこうなったのか知りたい。
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アメリカのDEIまわりの状況。こういう手のひらがえしと思える超急激な価値観と社会の変化が起こりえないことが、日本の変わらなさの良いところでもある。そういう文化の差
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🗻 小盆地宇宙
小盆地宇宙という言葉をおしえてもらった。私自身の生まれが県境のまさに盆地の町で、2つの県の文化の混合を感じていたので、行政区をまたいでも通づるような文化圏みたいな単位があるだろうなとぼんやり考えていた。
「小盆地宇宙」とはつぎのような地形を特徴とする文化 領域で、その土地に住む人たちが歴史にきずきあげてきた、いわばひとつの精神世界のことである。日本列島には、小盆地宇宙な世界がおよそ百ほどあるらしい
正直公開するか迷っていた記事だったのですが、メルマガくらいでは忖度したりしすぎずに、ある程度スタンスは取ったほうが良いかなと思い直し公開しました。


