#17 AI時代の(デザイン)教育
バウハウスが工業化以後のデザイン教育のあり方を模索し、AEGが工業製品をデザインの対象へと押し広げていったように、AIによる変化もまた、単なる新しいツールの登場ではなく、「ものつくりかた」そのものの転換として捉える必要があるのかもしれないと考えていた。
産業革命では、手工業的な生産から機械・工場による大量生産へと移行し、「機械によって作られるものを、どう設計するのか」という新しい問いが生まれた。こうした生産様式の転換を背景に、工業デザインや近代的なデザイン教育が形成されていく。バウハウスは、工業化された社会のなかで「つくること」をどう再編するのかという教育実験だったと捉えられる。またAEGやドイツ工作連盟におけるペーター・ベーレンスの仕事は、建築・製品・グラフィックを横断しながら、工業生産によって生まれるもの全体をデザインの対象として統合していく試みだった。
この流れを踏まえると、AIの登場をIT革命の延長として捉えるより、むしろ手工業から工業生産への移行・生産様式の転換として考えた方がよいのではないか。かつて人間が手で行っていた制作が機械に置き換えられたとき、デザイナーの仕事も変化した。同じようにAIは、多くのホワイトカラー領域における「作り方」そのものを変えつつあり、デザイナーのデザインの仕方も確実に変わっていくだろう。
このとき重要になるのは、何を作れるかということ以上に、何を良いとし、何を選び、どの方向へ進めるのかという「判断」をどう育てるかだと思う。つくる能力そのものよりも、判断し、方向づける能力の重要性が増していくのだとしたら、そのための教育が必要である。
AI native時代の袋小路 ― 見立てる力はどこから来るのか - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing
安宅さんの記事でも似たようなことを言ってる。
第一は、教育における「人間が通過すべきプロセス」の再設計だ。教育の目標を、アウトプット効率ではなく、知性形成プロセスそのものに置き直す。具体的には、若い世代に「AIに任せてもいいこと」と「自分で苦労してでも通過すべきこと」を意図的に分離する規範をつくる。スポーツでウェイトトレーニングを「効率が悪いからやらない」とは言わない。判断力の筋トレとして、わざわざ非効率なルートを残す。それが社会的に合意されている必要がある。そう、これはAIを排除するのでも、AIに任せるのでもなく、人間が通過すべきプロセスを意図的に守る設計だ。あわせて、「好きなこと」だけを入り口にせず、本人がまだ存在すら知らない領域に意図的に放り込む経験を残すこと ― これも社会的に守るべき設計の一部だ。
単にAIリテラシーをあげましょうね、では解決しない。バウハウスの予備課程のようなものを、一度その理念まで戻って再発明する必要があるのかもしれない。予備課程をつくったヨハネス・イッテンは、学生にいきなり特定の専門技術を教えるのではなく、色彩や形態、素材に実際に触れながら、それらの性質や関係を自分自身で発見していくことを重視していた。その後、予備課程を担ったヨーゼフ・アルバースも、紙やガラス、金属などを用いた実験を通じて、既知の使い方を覚えるのではなく、素材が何を可能にするのかを自ら探ることを求める。いわば、予備課程は、具体的な何かをデザインための技術を直接教える以前に、「見ること/触れること/試すこと」を通して、自分自身で違いを発見し、判断するための基礎をつくろうとした教育であったとも言える。
さらにモリスまで戻ると、「機械を使うか、使わないか」以上に、生産のあり方が人間の労働や感性、生活そのものをどう変えるのかを問いとしていた。生産様式の変化は、単にものの作り方の変化ではなく、それを作る人間のあり方の変化でもある。
だからAI時代のデザインとその教育を考えるために、最新のAI教育を見るだけではなく、産業革命という生産様式の転換に対して、モリスからバウハウスまでが何を問題にし、何を教育によって作り直そうとしたのかまで戻ってみる。それを、現在の生産環境に対してもう一度学び方のデザインをし直す。作られ方や製造工程が変わることと、デザインのあり方はセットだからだ。少なくとも資本的な流れ・マジョリティ、生産の現場においては。これらの流れよってアウトプットが変わるかどうかはここでは言及しない。メジャーではない、新しい表現を模索していくような活動はおそらくそこまで大きく変化しないだろう。
ただし、その生産の速度や深度の変化は、デザインの領域によってかなり異なると予想する。
建築設計をしているパートナーとこの話をしたとき、「建築設計はAIによっても、そこまで大きくは変わらない!」と大声で喧嘩になった。よくよく言っていることを聞いてみると、それは建築というものづくりの物理的なスケールと関係しているのかもしれない。確かに建築設計の一部はAIによって自動化され得るとしても、その先には資材の搬入、施工、組み立てといった、人間の身体が介入しなければ成立しない仕事が大量に残っている。敷地などの物理制約あるいはデザインによる与条件が、オリジナルである領域ほど人の介入余地が大きい。もっとも、ハウスメーカーなど画一的な工法はより「効率化」される可能性は高いが。そういう意味で、AIによる変化が生産工程全体を貫通するまでには、ある程度の時間差がある。
一方、工業製品のことを考えると、すでに生産工程の多くが工場のなかで自動化されている。さらにAIの進化によりロボティクスが発展することは必然的であり、現在人間が担っている物理的な作業まで含めて、生産工程そのものが再編される可能性がある。中国やアメリカのインダストリアルデザイン教育が産業構造の変化に応じて変わりつつあるという話を聞いていると、製造工程をも変わっていくことで、工業デザイナーのデザインの仕方もかなり大きく変わっていくのではないかと思う。
情報デザイン、とりわけIT領域では、この変化はすでに起きている。対象そのものが情報であるため、AIが設計から実装までのプロセスに直接入り込むことができる。実際、身近な友人デザイナーも企画〜デザイン〜実装まで自分でおこなう「フルスタックデザイナー」として働いている。作り方が変わることで、職能の境界やチームの構成、働き方まで変わり始めている。
これに対してグラフィックデザイン、とくにビジュアル制作の領域では、少なくとも現時点では、AIは既存の制作プロセスやツールの内部に緩やかに組み込まれていくように見える。設計された「ツール臭さ」が消えるのがプロのしごとだとすると、多少のツール的な効率化や「っぽいもの」が大量に後追いしてくる速度は劇的に上がるだろうが、それ以上にはならないような気がしている。ある文脈に対して、それまで存在しなかった新しいビジュアルを発明すること自体の価値は償却されない。むしろ生成が容易になるほど、「何を新しさや良さと見出すのか」「なぜこの文脈でこの表現であるべきなのか」という判断の価値はいまとあまり変わらないだろう。
だから人間が時間をかけてつくるものは、オートクチュールのように、その非効率性や一回性、属人性を含めて価値となる。これはおそらくあらゆるデザイン領域で人間のデザイナーが関わる価値の一つになるだろう。
こうして考えてみると、AIがデザインに与える影響を考えるとき、「AIが何を上手につくれるか」を比べるだけでは不十分なのだほう。むしろ、それぞれの領域において、AIとロボティクスによって生産工程全体がどこまで再編されうるのか。そして、その再編によって、デザイナーが担ってきた「つくること」と「判断すること」の関係がどう組み替えられるのか、ということなのではないか。この話をインターンの子としてたときに、ポストフォーディズムが究極化していくのでは?と言われた。だからこそ「計算資源よりも人間のほうが安いから人間を残す」道はあるだろう。それはそうかもしれない。だから、効率的に工業化・産業化されているものが再編される。
そうすると、いま考えるべきデザイン教育の問いも、「AIをどう使えるようにするか」から、「作ることの前提そのものが変わる時代に、デザイナーの判断をどう育てるのか」へと変わってくる。そして教育と書いているが、私は教育者(アカデミア)ではないので、実務の上でどうパスをつくっていくかということなのであるが。
👀最近の気になりごと
わかりやすいので初心者でも読めるだろうと言われて買った、楽しみ。最近は時間感覚のことが気になっている。資本主義的、健康で欠陥がない「ふつう」の人が対象となる直線的なしごと時間。いったりきたり、思うように進まず、曲線的で予測不可能な、進み方が直線的ではない生活時間。ざっくりと解説すると、時間のフレームレートの数によって経験や感覚が変わるような論がベルクソン的な論である、と教えてもらった。
🎵 輪島裕介×唐木元「日本ならではの音楽」と「文化の脱植民地化」をめぐる対話【前編】
ありがたく鑑賞するのではなく、カジュアルな参加や合奏ができる場。歌とか、踊りと歌、踊りと演奏を伴う、社交とか娯楽の場が日本に無くなっているということがたぶん一番の問題だと僕は思っていて。そういう場があれば、たぶんそういう場にふさわしい感じの演奏実践だったり、それにふさわしい音楽スタイルも自ずと出てくるだろうと思ってるんです。
音楽に限らない。カジュアルに消費されることが、実践やスタイルにつながる。美術館にデートで行く、展示がインスタでバズる、みたいな、薄く軽率に楽しめるみたいな。
輪島:はい。日本で内面化された西洋史上主義を武装解除しようとすると、帝国日本が顔を出すという。侵略国だった私たちからの脱却と、被占領国だった私たちからの脱却とを、両方同時にやらないといけないのが難しいところです。
日本において植民地主義の話をするのであれば、アジア諸国への侵略国でもあることとセットで語らないといけないよなとはぼんやり思っていたが、帝国主義的な側面を見ないといけないのは確かに。前に他の人に教えてもらって読んだ「南洋と私」のことを思い出していた。
🛠️ リサーチカンファレンス2026 オンライン会場の話と、5年の振り返り
リサーチカンファレンスの裏方のところニッチだけど面白かった。スピーカートークを録音+切片化してMiroに貼りつけの半自動化、リアルタイムで表示+レイアウト化。
おそらく読みにくくはあるけれど、AIは使いながら、整えすぎないあんまり結論ありきではない文章をもっとカジュアルに出して行く練習です。骨子をしっかり立てて練りつづけるような書き方ではない文。


