今日の話は自分の中の答えが無くもやもやしているところで、うすらぼんやりとした仮説はあるものの、まとまりがなくオチはないです。
単純化しすぎず、より複雑なコンテキストを伝搬することの重要性も、困難なこの時代においてますます高まっている。そしてその「複雑なものを複雑なまま扱う、デザインにはその可能性があるという」のが言説だが、理論としてはも頭でわかっているが、定量・定性、大量データを扱うプロジェクトをいくつか経験する中で、いまだに腹落ちできる部分とできない部分がある。
”デザイン”が内在する大きな価値の一つに可視化があるが、その価値の1つが「情報の圧縮」であると思う。「ヴィジュアルのちから」というと少し大げさかもしれない。紙面の面積やデバイスのサイズ、限られたデータ数といった媒体の制限と、人間が一度に受け取り処理できる情報量の限界を加味しながら、伝わるコンテクスト量を最大限まで引き上げることに大きな価値がある。デザインプロセスの前半部分、カオスで対立した状況を取り扱いながら、探索的に一度受け入れれ統合的していく、 Design Squiggle の前半部分。現状を取り巻く状況をマッピングしながら理解したり、UIやヴィジュアルデザインを生み出す段階での発散プロセスにおいて自分はとっ散らかすのが結構好きだ。作業途中のアートボードやFigmaのページをみられて他のデザイナーには笑われるくらいカオスナ状況になりがちだが、意図的に創出したカオスの中から浮かび上がる要素を引っ張り出そうとする。
伝えていく中身を練り上げていく段階でも、統合していく過程を繰り返していくことで複雑さがより鮮明に浮き彫りだってく感覚もある。絡んでしまった毛玉を解いてみて初めて、よられた糸を見ることができるような感じなのかもしれない。
一方で後半部分、物事を伝えていく部分では人が受け取れるように情報量は削ぎ落とされる。スティーブ・ジョブズとリークロウの有名な逸話のように、短い時間でわかりやすく伝えるために単純化にすることは必要だが、これらを重視しすぎることで複雑な文脈を殺してしまったり、一部の力関係を強調し現状の構造の強化につながってしまうこともある。
そんな状況を打破するための表現だとされている、複雑な関係性の可視化を試みるシステムマップは、他者に伝えるアウトプットとしては複雑すぎてしまうことが多く、文脈を知らない人が見ても情報を受け取ることが難しいのが実情である。場合によっては、時間が経った後に自分が作ったものも、後から見た時にその意味を思い出すまでに時間がかかる。システムマップはプロセスにおいての整理、ステークホルダーが自らの立ち位置や課題関係をを改めて認識することへ対しては強力なツールとなるが、外的世界への表現としては適切ではないかもしれないと感じている。
テキストですら同様だ。ルールや規制も抜け漏れがないような言葉や注意喚起が多い方が丁寧ではある一方で、多くの人は長くて難しい文章を読みとばす。自分も例には漏れず、サービス利用規約は見ずに会員登録してしまうことは多いし、提供側が設けた規則を破り、なにかしらの損害を被って初めて、利用側はそのルールを知ることとなる。
先日こんなことがあった。レターパックを購入し、10部ほど、PCで印刷した宛名を貼り、発送するため意気揚々と郵便局に出かけたところ、宛名を貼ったテープが貼ってはいけないところにかかっているとのことだった。その結果、全レターパックが無駄になり、買い直し&宛名の書き直しとなった。窓口のお姉さんにはレターパックの表側に示された注意書きを指差し、「ここに書いてあるので…」と申し訳なさそうに言われた。これまで何度もレターパックを利用したことがあったが、印刷された規則を知る由もなく、また梱包作業やり直しか…と絶望的な気分になった。提供側が伝えたいとしたためた、長い文章や注意喚起といった情報の束はどんなに目立つ場所にあったとしても気づかれることがなく、提供側の保険にとどまってしまうのだと身を持って感じた。
また別の日、とあるディスカッションのなかで、「この打ち出し方では『リベラルインテリ』しか集まらないのではないか」という話が出た。広い範囲で必要な理想的で複雑で込みいっているものを、ほんの少しの特定の人しか受け取れないかたちで表現することは、悪く言えば一種の選民思想的な分かる人だけが受け取れるものになってしまうかもしれない。意図していようがいまいが、not for meだと受け止められることそのものが、共同体の分断をより深めてしまうことにほかならない。(もちろん、ケースバイケースで、そういうブランディングでより近い人をフィルタリングすることが悪いわけではない、とも思っている)
もちろん、わかろうとする受け取る側の姿勢、そのために時間をかけることができるかも大きく影響するが、あらゆる人が忙殺される社会の中で、気に留めていなかったことに目を向けるほどの余裕をもつことも困難であろう。だからこそ、TiktokやYoutubeショート動画、あるいはTwitterの過激な言説など、インスタントでわかりやすい刺激的な情報が流行る。アテンション、人の時間、生命を奪い合う。複雑なものを扱う場合、広範囲でのステホークホルダーに関わってほしいこと、アテンションのとりやすさ・とっつきやすさとのバランスをいかにとるのか。共通のものがたりをわかろうとする”以前”は、どうありうるのだろうか。
🇨🇳今週のご飯
なんやかんや用事や仕事をこなしGWらしいことができなかったので、せめて休みっぽいなにかしようと友人の中国人夫婦と西川口へ。西川口中国からの移民でチャイナタウン化しており、日本語が通じるか怪しいくらいの店でガチ中華が食べれる。
友達夫婦はそれぞれ、中国の東北の方と南の出身。本当かウソかよくわからないが、日本の中華料理は四川料理なども含めてほとんど東北地方の中国人がお店を出したり料理をしているらしい。「北京ダックですら北京の人つくってないよ」とのこと。
行ったお店も店員はほぼ中国人、店内の張り紙もほぼ中国語。せっかくなのでいろいろおまかせして注文してもらった。飲み物のおかわりを頼もうと思ったら、店員さんはあまり日本語を話せないようだった。饅頭をこんがり揚げて、練乳をたっぷりつけて食べる悪魔的な料理が美味しかった。
📝今週きになったこと
⛪足立区に「福祉まるごと相談課」が新設。高齢、介護、障がい、保健、子ども・子育てなど既存の窓口に加えて、「誰でも・なんでも相談できる窓口」として、新たに創設した福祉窓口です。
📝Tim O'Reilly『イノベーターはいかにしてエッジと理想を失うか』
🛒妊活タイミングをチェックできるおりものシート:妊活タイミング予測の困難さを技術で突破していてちょっと感動した
今週のニュースよりも気になったことのほうがかけることが多そうなので、項目名を変えてみました。