とあるご縁で、宮崎県は日之影町に2泊3日で遊びに行ってきた。知人の同級生が修論のテーマで地域資源の活かし方といった研究をしており、日之影をフィールドにツアーを組むので実験協力者として参加してほしいとのこと。今年は夏から仕事で宮崎市に月1,2回訪れていたが、仕事の出張だとなかなか時間も取れないし、車も運転できないため遠出することが叶わず良い機会になった。日之影町は人口3000人ちょっとの小さな町。観光地で有名な高千穂町と、宮崎で二、三番目に大きい街、延岡市の間にある。山中にある町なので高速に乗って高千穂まで向かう人は、そこに町があることも気づかず通り過ぎてしまう人がほとんどである。
ハイライトの一つは旅行の前々日に、元々メインの目的だった、知人が舞う集落の神楽が、集落に不幸があったとのことでしきたりに従い中止となった。人の生死はコントロールできないから、計画通りにいかないこともある。全くご縁がない方の不幸によって、自分たちの旅行の目的も変わることがあるのだと,不思議な気持ちにから始まる旅だった。一体なんの目的で、宮崎市内から2時間かけて日之影まで行って何をするんだろ…とは思いつつ、そうは言っても飛行機はすでにキャンセル不可のチケットを取っていたし、知人達はいろいろ調整してくれていたため、何をするのかもよくわからないままとりあえず宮崎へ。
2日目午前中:インフラツアーと町の神話
午前中は、観光協会の方が町に伝わる神話のはなしと、橋をめぐるインフラツアー。
日之影の『影』は陰shadowではなく『日の光』の意味であり、神話に由来する。高千穂のとなりのこの街にも神話に関連する場所や土地が多くあり、それぞれの集落の名前も神話に関連しているものもある。また、明治以降、力を待っていた旧薩摩藩の影響をうけた政治的な背景も関わっており、元の土地の名前の意味から異なる当て字が使われている土地もある。(宮崎の近代史は鹿児島を抜きには語れないのだ。)
また、日之影には渓谷にあること、県内の5大河川である五ヶ瀬川・日之影川、そしてその系統の多くの川通っていること、で橋がとにかく多い。なんと大小215本(!)の橋がある。江戸時代に建てられたノスタルジーかんじる石橋から、2000年に建設当時は日本一の長さだった橋まで。ラーメン構造やトラスト構造など、古に大学の授業で一通り習ったなと思い出しつつ。生活の用を体現する土木インフラ、やっぱり大きい人工物にはテンションが上がる。
江戸時代末期に建てられたと言われている石橋、鶴の平橋
天翔大橋は、2000年当時、コンクリート橋として日本一の長さだった
2日目午前中:地域の神楽へ参加
もともと見に行くはずだった一の水地区の神楽が中止となったため、日之影の別の地域、楠原(くすばる)地域の神楽へ。神楽は農作業が一段落する11月ころから2月くらいまでに行わることが多い。お初穂料はお金か焼酎とのことで、焼酎を持って行く。
まずは、地域の神社でスタート。昔はどの地区も三十三あるすべての舞を踊る夜神楽が長いときには3日間もが行われていたそうだが、現在は一の水地区も楠原地区も日神楽(昼間の神楽)、昼過ぎくらいから始まった。
この地域の神社は集落の中で少し高台にある。
地面は苔で覆われていて、清々しさと山の冷たい空気をよく感じられる。
高千穂などの観光神楽ではなく、生活の中にある地域の神楽。神事の後、神楽がはじまるが、多くの場合場を清める「鎮守」の演目から始まるらしい。
神社での神楽はだいたい2時間くらい。そのあいだ、神楽のまわり周りで何をしてるかというと、舞手の4人以外はみんなお酒を飲みながら宴会をしている。厳かな空気の中神楽をじっくり鑑賞という雰囲気ではない。わいわい宴会をしながらたまに舞を見たり、リズムを取ったり、たまに神楽歌を一緒に口ずさんだりしてる。参拝者である自分たちも振る舞い酒を頂きながら、地域の人達と談笑する。県議の方や地域の学校関係者が来ているのもおもしろい。
奥にいるのが舞手の周りでお酒を飲んでいるひとたち
その後、近くの公民館に移動して振る舞いをいただく。振る舞いは集落のお母さんたちがせっせと用意してくれていた。
神楽の時では「お煮しめ」と「うどん」が伝統的な定番らしい。今日のお煮しめは、それぞれのご家庭から持ち寄りだったそうで、少しずつ異なる家庭の味が楽しめた。だしが染みてて美味しい煮物。
宴会の席には、地域のみなさんはもちろんのこと、小学校の校長先生や教育委員会の方、そして町長まで同じ席でお酒を飲む。町長とお話しして、「僕の仕事は、それぞれの地域イベントに参加して呑むことなんですよ」と笑ってお酒を飲んでいた。高校まで自分の暮らしていた町は当時合併前で2万人程度だったが、町長との距離は遠く、小学校の運動会の挨拶であいつよく見るな…くらいの認識だった。子供も含めて地域の人たちが集まるお祭りにきて、こんな近い距離に町長がいるって全然政治が感覚違いそうな気がする。
日之影の人たちは外から来た自分たちにも優しくオープンで、とてもよくしてもらった。たくさん飲めよ!と、焼酎を次々に注がれる。お湯割りのためのポットがしっかり用意されてるのも、デフォルトで用意されてるグラスが耐熱なのも焼酎を飲む文化の暮らしだ。東京で流通してる焼酎は25度だが、宮崎の焼酎は20度。生(気)で飲む(常温でストレートで飲む飲む)ことも多い。日之影では木挽派と黒霧島派でやや木挽派が優勢。進められるがままにお酒を飲むだけで「いい飲みっぷりだねえ!来てくれてありがとうね!」と褒められたり、神楽歌が書かれた冊子を見せて解説していただいたり。お酒が飲めるだけで喜んでもらえるなんて、生きてるだけでそうないのでありがたい。
一緒に来ていたパートナーもわたしも北関東の田舎出身なのだが、北関東はもう少し閉鎖的・他所から急に来た人をこんなかたちで受け入れられないだろうなと話していた。同時に、東京に近い立地である北関東の難しさであり、宿命でもあるように思う。そして、オープンな土地柄もさることならがら、こんなに受け入れてもらうのもひとえに、アテンドしてくれた知人が地域の中でこれまでつくってきた関係ありき。この関係値をつくるのは自分にはおそらく不可能。自分にはその関係を構築する煩わしさを引き受けられなかった負い目がある。生まれの土地と出会う土地、異なる場所と出会い引き受けることは可能かもしれないが、今後こういうかたちでどこかの地域にどっぷりと関わることはあるのだろうか、いまのところ想像すらつかない。なまじ、良くも悪くも関わることの解像度がある程度備わっているから。一方で今回、一歩っ踏み込んだ場所での客人のもてなしを1面だけ見ても人との関わり方やノリが地方によって大きく異なることは肌感覚としてわかった。だからご縁があれば、煩わしさも全部引き受けたうえでこの土地に関わりたい、という地域と出会う可能性もなくはないかもしれない。
そして後半はは宴会場を端に寄せ、公民館でも「鎮守」から神楽が舞われる。日之影の男たちは小さい頃から太鼓のリズムが体に刻まれてるのだと、宿の女将さんが教えてくれたのを思い出す。最後の舞は御年78歳の神楽の師匠が舞われていて、無駄がない1つ1つの所作に人生の重みがある。
最後は餅が撒かれて終了。当日の準備のために地元のみなさんは一緒にわらを編んだり、紙の飾りを集まってつくる。祝祭。コンヴィヴィアル。ともに生きることであり、宴会であり、コミュニケーションの場としての神楽を感じる。神話が生活の中にあるということ。
(後編へつづく、はず)